コラム

治療は誰のためか

長年、患っている者を、馬鹿にしてはいけない。
患者という立場に永らく身を置いていると、ある意味で目が肥えてくる。

近年、治療者のあいだで「流行(はや)ってきた」かのように見えるのが「エビデンス・ベイスド(evidence-based)」である。
「実証に基づいた…」と訳すべきなのだろう。

あまりにオカルトじみたセラピー、カリスマじみた施療者がたくさん現われ、得体のしれない施術が多く行われるようになってきたために、
「精神療法は医療である。科学である。オカルトや宗教ではない」
ということを力説するあまり、実証的に症例と経過と予後を収集してくる「科学的態度」が、このエビデンス・ベイスドと呼ばれるものらしい。

たしかに、それはそれで重要なことだろう。
しかし、患者の立場から見れば、そんなものはいくらでも抜け道があるように思われる。

たとえば、○○療法という、一つの治療法を開発した治療者は、当然それを世に広めたいと思うだろう。そのために、それがいかに効果があるかを訴える論文を書くだろう。となると、その論文には、自分の主張に都合のよい患者しか取り上げない。
その治療法が効かなかった患者の例を、故意に省くことはあまりないとしても、論文作成の段階で自然淘汰されていくのではあるまいか。だから、論文に取り上げられている例の数がいくら多くても、その治療法の成功率が高くなるのは、当たり前である。
そんな数字に、意味があるとは思えない。

その治療法で治らなかった例を、つぶさに挙げていく論文を書いてくれる治療者でもいれば、まだしも救われるのだが、実際には、治療者は人の揚げ足を取ることだけに時間を費やしているような暇な商売ではない。
マスコミに、ある療法が叩かれ始めると、それに乗じて、「いかにそれが効かないか」を扱う論文が書かれるだろうが、そうでもなければ、めったに書かれないのである。
そんなわけで、くだんの治療法に関しては、一方から収集された事例ばかりが載り、それが読まれるにつれ、あたかも普遍性を持つかのように広まってしまうのである。

こんなものを「実証に基づく科学的研究」と誇ったところで、いったい何になるのか。
喜ぶのは誰か。

「いや、先生。先生の治療法に頼らないでも、私はこれで治しました」
という患者があらわれると、
「いやいや、あなたが治ったのは医療とは言えない。科学ではない」
と片づけて、あたかもこちらが新興宗教に走っているかのような目を向けられる。

患者にとってみれば、ようは治ればいいのであって、それが○○療法であろうが、××療法だろうが、科学だろうが何だろうが、どうでもいいのである。
○○療法で治れば、その治療者の業績に寄与することになるだろうが、業績があがって喜ぶのは治療者自身であり、患者ではない。

となると、何のための医療か。誰のための医療か。
答えは簡単。「医療の進歩のための医療」、「治療者のための医療」ということになる。
そんなものをはたして患者は欲しているだろうか。

そういう治療者たちの自己完結や自己満足と距離を取るために、私たちのような自助グループの思想や活動がある。
ある意味で医療批判が形になったものとも言える。
だから「治療」と言わないで、「回復」と呼んだりする。

治療者を原則として入れないで、回復を望む者たちが対等な立場から行なう、語りによる癒しというのは、その語りの内容がトラウマの本質をちゃんと語っているかどうかなど問わず、それを語ることによって本人が癒されていくことに重きを置いている。
こうしたアプローチは、ナラディブ・ベイスド(narrative-based)「語り(本人の訴え)に基づいた」療法とも呼ばれる。
エビデンス・ベイスド志向の治療者たちには、非科学的だとして評判が悪い。

念のために繰り返すと、私たちJUSTはいかなる宗教とも関係はない。