リカバリング アドバイザー養成講座

VOL.7  困っている誰かに、自分が受けた思いをおすそ分けすることが恩返しになる(第1期修了生 ノンミミチャ丸小梅茶チ)

VOL.7 困っている誰かに、自分が受けた思いをおすそ分けすることが恩返しになる(第1期修了生 ノンミミチャ丸小梅茶チ)


● 福島に嫁いだ友人のため、夫のために何か手助けがしたい

治療を始めて10年程過ぎると病院には顔見知りがほとんどいなくなりました。社会に戻っていった人の中にはカウンセラーになると言う人が結構いました。そういうのは凄いなあと思いつつ、私には絶対に無理だわと考えていました。5年前に起こった大地震、東日本大震災です。福島に嫁いだ友人に安否を確認するために連絡を取りました。心臓に重い障害がある子どもがいましたし、放射能の一件もありましたので心配でした。
友人の子どもは放射能云々以前から体がきついので家に閉じこもっていることを聴きました。「友人の子どものメール相手になれないだろうか? 私にカウンセラーの資格があったなら・・・」とあれこれ考えるようになりました。


ぼーっと数年過ぎ、そうこうしているうちに、私の症状は不安定ながらも安定してきて、夫の仕事の独立があり、散々世話になった夫の何か役立てることを探していました。
丁度その頃にRe.Adv養成講座の募集がありました。若い頃、逃げるように家を出た私は、東京で一人で生きて行く術をその友人に教えてもらったと思っています。夫と結婚出来たのも、彼女に出会えたからと思っています。募集要項を読んで、すぐに誰かの役には立てないかもしれないが、受講したいと思いました。もう一つ考えたことがあります。



● 孤立した子ども時代の経験から、子どもやお母さんの力になりたい

何か子ども達の手助けをしたいという思いです。私は子どもの頃から原家族の中で孤立していました。いろいろな理由と事情があり、そうなってしまいました。成長過程で困り、社会に出ても困り、結婚後・出産後も困ることがたくさんありました。

通院先でのデイナイトケアでのプログラム、医師、病院スタッフ、カウンセラー面接、集団療法で助けてもらい、たくさんの人の話を聴く等で考え方を再構成する、困った時の対処法、自分のケアをする事は大事で方法を学びました。


● レポートに質問を考えて書くことで理解が進む

私の中の嵐が小さくなっていく中で、「私には話を聴くことしかできないけど、それだけのプロになれないだろうか?それになれたら、子育てに悩むお母さん達の話を聴くことで、間接的ですが、子ども達の手助けになれないかしら?」という思いが強くなり、駄目で元々と考えながら申し込んでしまいました。


● レポートの書き方に悩んだ結果、視野が拡がる

授業の内容は治療をする側の内容でしたので、授業を受けているうちに、自分の治療を振り返っていたりしました。ショックな内容もありましたが、受け止めることが出来ました。
授業ではレポートの書き方が分からないでいました。レポートを数回出し終えた頃、ある講師が受講生一人ひとりにコメントを書いて下さり、皆が読めるように数枚のプリントにして配って下さいました。それを読んで驚き、自分が今まで提出してきたものが恥ずかしくなりました。

それからレポートの書き方を変えたのは勿論ですが、出来るだけ本を読むようになりましたし、斎藤先生のおすすめの映画を見たりしましたし、NHKをよく見るようになりました。

勉強をしながら家事・夫の仕事の雑用をこなし、子どもと向き合うことをしながら、私にはかなりオーバーワークになっていましたので、きつかったです。


● 「続けるのは無理なのでは?」から「勉強が楽しい」へ

学校は私には恐ろしい場所でした。幼稚園小中高とクラスに馴染めず孤立し、イジメもありました。先生にもイジメられました。家でも外でも人の顔色をうかがう癖があり、集中力はそちらに向けられます。勉強に集中出来なくて、成績は下でした。

Re.Advの最初の授業に出た日に、「この先授業を受け続けるのは無理なのではないか?私なんか・・・」という私のお得意の自己卑下が始まりました。こうなると自分をなだめるのが大変でしたが、なんとかしました。原因は私以外の受講生達が、自身に満ち堂々と見えたからです。

授業の日数が過ぎるうちに、皆の自信は苦難やいろいろな経験を重ね、独自のやり方で何とかやってきた人達と分かると、最初のクラスメートへの恐怖心は何処かへ行き、クラスメート個々に興味がわいてきました。私は、本来は知りたがり屋ですので、勉強はどんどんはまり、勉強の楽しさを味わいました。



●人生で初めて、学校でクラスメートと過ごす楽しさを味わう

楽しいことばかりではありません。授業の内容は自分にとっての苦しみの振り返りでもありましたから、帰宅後以降、感情的揺さぶりがあり、家族に迷惑をかけました。何とかするのは大変でした。遅刻が多くクラスメートに迷惑をかけ、申し訳ありませんでした。

1回も休まず授業に出たり、学校が楽しいと思うのは初めてでした。これらは、少し自信になりました。学校で過ごすことやクラスメートと過ごすことの大切さは、心に少し余裕が出来た今だから感じることが出来たのかも知れません。

振り返って小中高とこのような経験(その時代にしか出来ないこと)が出来なかったのは残念だったと思いました。ペアを組んで練習したり、グループに分かれて意見交換など、「病気じゃない人ってこんな考え方なんだ」など色々な面で人間観察が出来ました。

授業は歴史的内容も絡んで教えて下さり、私は大変に楽しみました。夫には「歴女になれるんじゃないの?」とからかわれました。時折、ノートを夫に見せると「へえ、大学なみに教えてもらってるんだなあ」と驚いていました。しっかりと教えて下さったと思います。すでに援助職に就かれている方には私のようなレベルの者が一緒に受講した事は迷惑だったかもしれません。

●絶望と生きづらさを抱えながら

いつも一人で遊んでいてある日、「男の子にはなれないんだ。私は男の子に生まれなかったから、こんなひどいことが起こるのだ」川沿いの土手に4,5時間座り、川を見つめて「今後、生きていても仕方がないんだ。早く大人になりたい、大人になって結婚して子どもを産んだら死んで良いのだ」。絶望と勝手な思い込みを抱え、大人になりました。

結婚生活と子育てをしていく中で、私は何か何処かがおかしいけれど、「どこがおかしいのだろう」と何とも言えない気持ちの悪さが、いつもありました。

精神病を発病しましたが、夫と子どもの協力でクリニックに通う時間をもらいました。17年間の時間は幼い頃の絶望感が消えることでは無かったし、病気が治るわけではありませんでした。

斎藤先生の診察が何か変化を起こし、劇的に病気を治してくれるわけでもないし、症状が無くなるわけでもありません。こんなに長く治療をしてもスッキリ治らないし、少し病気がよくなった自覚はあるけれど、相変わらず死にたいし、死を考えながらも、私に関わって下さった人達の気持ちを無にする事は出来ないけれど、どうして生きなければいけないのだろう?急に時々起こる感情の爆発は生きづらさを強くします。

感情の経験を回避する為の幾つかの衝動行動を抑制するようになってきましたので、毎日の気分に振り回されることが余計に苦しく感じます。こんなに頑張ったから自死しても良いのではないかと考えたりしながら受講していました。

●講義で、生きるためのヒントを受け取る

Re.Advでの勉強は歴史、社会について、人間について諸所をほんの少しですが知る事が出来ました。今後、生きて行く為のヒントを貰った感じがします。

圧倒的な悲しみや怒り etc・・・の感情は回避せずに受けて味わうことです。ちゃんと味わい通り過ぎることをしてこなかったので、誰かを信じ、愛し、急に去られるのが怖いです。

感情に対し過敏さがあることが分かりましたので、制御不能になっても何かの対策を考えました。症状は出ないように必死に努力し大変ですが、いつも不安定な気分だけど、自分なりの安定を見つけることが出来ればいいのです。

駄目な私には理由があったことを知りました。200年以上前から精神病を発症する家族の形や考え方は今も昔も変わらない事や、私のような変な人はいて、その頃より今は治療が進歩し、昔より生きやすくなっているはずなのです。

精神病の性格を持って生きることは、本当に生きづらいです。「症状を抑えられるようになったら、社会に戻ってみようか?」と欲が出てきます。ちょっと勉強をしただけですし、相変わらず自信はありませんが、生きる意味を求めてきたのは、間違ってはいなかったかなと思えました。

私は有料の補講を受けての認定でしたが、ここ2ヶ月は感情の爆発は起きていません。治療者側からの対応を学べた事は今の私に有益でした。



●電話相談でトレーニング

毎日不安定な気分を抱えつつ、JUST電話相談の相談員を務めています。どうしても具合が悪い時も、電話相談の予定を入れた日は、電話相談の為に起きて身支度をして、遅刻をせずに部屋に到着し、終わったら家に即、帰宅します。

電話を取り、集中してお話しを聴いていると、自分の苦しさを忘れている事に最近気が付きました。自分なりの生きる術を見つけましたが、それらを維持し、新たな術を見つけるのには、絶え間ないトレーニングが必要です。

これからも大勢のお話を聴く事で、忘れていた事を思い出したり、新しい発見をしたり、適度な刺激は私の良いトレーニングになっていくでしょう。





●気分の不具合を抱える自分だからこそ、話を聴いてもらうことの大切に気づく

他の気付きは、受講後、夫のつてで数人のお話を聴く機会がありました。お話の内容は、17年前に私が話していた内容に似ていました。お話を聴いた後の数日間は、ぼーっとしてしまいました。

その間思ったことは、私は偶然に治療をする時間とお金を頂けたということです。誰もが私のように治療を受けられる場と時間とお金に恵まれるわけではありません。たまたまもらえたチャンスですが、受けられた事を私で止めないで、循環させた方が良いのでしょうとは思います。

気分の不具合を抱えているのは私だけでは無いと思います。考えないように思い出さないようにしていた感情が何かの拍子に出て苦しいけれど、話せる人と場所が無い、分からない。こんな私は駄目だ、もっと大変な人はいるから、駄目な私はもっと頑張らないといけないのだ・・・などの考え方は病気の域ですが、深刻な精神病の症状が無くても、気分の不具合を抱え皆さん日々を送っていると思うのです。話しを聴いてもらうだけの治療もありだし、聴きたいと思いました。



●「私を理解して下さい」から、「私が生きるために協力して下さい」へ

私は古典的な考え方を代々持つ家に偶然生まれ、不遇が重なり勝手な思い込みを自分で抱えて生き、何度か死のうと思い死にかけました。クリニックに通い始める前もなんとか生きてきたし、その後もそれでもなんとか生きています。

なんとかならないかなと探し求めたらクリニックが見つかり、斎藤先生に出会った事は偶然だと思います。17年の歳月は先生との出会いを必然に変えてくれたように思えます。

あのクリニックを作って下さったから辿りつき私は私を取り戻しつつあります。(多分)先生が目に映らない所に行かれてしまっても、「君たち皆で助け合って生き延びるのですよ。それだけのこと、私教えましたよ!」のメッセージを受けたように思います。

クリニックに来られない人もいます。私は良い思いをさせてもらったのですから、今度は困っている誰かに私が受けた良い思いをおすそ分けする事が、私に関わってくれた方々への恩返しになると思います。

重症な精神病者でも人との関わり方、つながり方を見つけられたら幸いですが、何とか生きて行けます。「私を理解して下さい」ではなくて、「私が生きるためにこれを協力して下さい」の考え方に変わりました。




●教わったことを広められるように、積み重ねていきたい

一流の先生に教わった事は広めないと教わった意味が無いのだと思います。でも私は相変わらず全然自信がありません。もっと修行をして、もっと勉強をして、一日一日を積み重ねて行こうと思います。

先の事は分かりませんが、それしか私には出来ないと思います。普通に日々を送りたいのですが、普通が続きません。いい加減(良い加減)を目指したいですが、きっとうまく行かないでしょうから、展望①「なる様になれ」です。

治療と勉強で親側の事情が分かりましたが、あれは無いよなぁが私の意地を張らせています。親との関係をもう少し改善せねばと頭にはいつもあります。ホッと出来る家では無いし、私にとって時にひどい家族でしたが、私を作ったひとつしかない家族です。ずっと怒り続けて意地を張って、後悔することにならないようにしなくてはいけないとも考えていますが、まだ時間がかかると思います。

展望②「自分の意志を持ち表して良いのだ、色んな事に対しても少し勇気を出し、自信を持てるようになれますように」

以上です。読んで下さってありがとうございます。