Toronto → 小菅 and Now

Toronto → 小菅 → and Now (2) 「最後の13時間」

さとうのぶこ


 フライトアテンダントに促され、乗客の一人もいない機内を座席に向かう。


 強制送還、という言葉はその昔ニューヨークに滞在していたころからよく聞く好ましくない単語ではあったが、まさか自分がそれを経験することになろうとは思ったこともなかった。こんなことは頻繁に起こるのだろうか?そう思わせるくらいそのフライトアテンダントは、まるで一番乗りの乗客を案内するかのように、私を後方の座席まで普通に誘導すると、よい旅を、と笑顔で去っていった。


「よい旅....」。まあ、ほかにかける言葉もないよね、などと思いながらもこれから始まる苦痛の13時間をどう過ごそうかと、人影の全くない機内で一人考える。いや、苦痛なのはそのあとから始まる1年10カ月なんだ、むしろ今からの13時間こそ、私の最後の自由の時間なんじゃないか、と突き付けられた現実にうなだれた。


 しばらくすると、そんな私とは対照的な、旅の締めくくりを楽しむ日本人観光客の団体が搭乗 して、機内はあっという間に見慣れた様子になった。だからと言って自分の心も平常になったかと言えば、むしろ周りのたわいもない雰囲気の中、孤独を感じていた。


 人生であれほどの孤独を感じたことはなかったかもしれない。数週間前にイミグレーションが土足で踏み込んできたあの日から、離れ離れになった子供たちの事しか頭になかった。入国管理局に収容された3人の子供と夫。イミグレーションのオフィサーの計らいで、電話で2回話すことができた。今思えばずいぶん寛容な計らいで、日本などではありえない事だろう。


 まだ5歳の次男は、私を心配させまいと「ママに会えなくて淋しいけど、ここもそんなに悪くないよ」と涙と笑いを提供してくれた。長女と長男は動揺を隠そうとするものの、その声のトーンから、彼女たちの心境が痛いほど伝わり胸をえぐられる。あー、これが本当の「最悪」、最悪以上の結果だ、と愛しい声を聞き終わり、電話を切ると、何とも言えない思いがこみ上げる。


「想定外の最悪の結果」。4年前に実刑判決に背き、日本を出たとき、それなりの覚悟はあった。周囲の反対を押し切り家族を道連れに「海外逃亡」を企てた一番の理由は、あの時の幼い子供たちから母親を奪うこと以上に最悪なことはない、と判断したからだった。4年たった今、月日とともに成長はしたものの、母を失うには十分な年齢でないことは明らかで、もうそれはどうにもならない現実になってしまった。


 飛行機が離陸した。窓側だったその席からは、4年あまり過ごした街が箱庭のように見える。子供たちがフェリーに乗って通った学校があったオンタリオ湖が、湖とは思えないようなエメラルドグリーンの水たまりのように見えた。泣いたり笑ったりしながらフェリーポートまでマイナス20℃の朝も通った日々が懐かしく、愛おしく、そしてそれはもう二度と返ることがない日々だという現実が、一層思い出を辛いものにする。


 ワンダーランドのジェットコースターや観覧車が目に入ると、昨日の同じ便で日本に帰った子供たちを想像して胸が痛くなる。空の上からワンダーランドを見つけてはしゃいだだろうか?13時間のフライトをどんな気持ちで過ごしたのだろうか?迎えに来てくれた友達には無事会えたのだろうか?今頃は久しぶりの日本で、おいしいものを食べて、見たかったテレビ番組を見て笑っているだろうか?


 イミグレーションに踏み込まれたあの日から、考えることは子供たちの事だけだった。


 いつもと変わらない慌しい朝だった。男の子2人とそろそろ学校に向かおうと身支度をしていたその時、一足先に出た夫と長女が階段を降りて部屋に戻ってきた。いつも忘れ物をして戻ってくる夫の事だからと大事には受け止めなかったものの、ふと見た夫の表情から、よからぬことが起こったことが読み取れた。その瞬間、夫が「のぶこ、イミグレーション」と、動揺を隠しきれない様子でひとこと言った。


 全てが終わった、そう思った瞬間だった。完全に道は閉ざされた。お上に背いた海外逃亡ではあったけど、私なりの正論があった。法律には背いたけれど、自分の決断としては間違っていなかった、とずっと思ってきたからこそ、悔しさと、国家権力のパワーに失意した。夫の後を降りてきた長女は見たこともない青白い顔色をしていた。


 ごめんね、一番避けたかったシュチエーションを導いてしまった。これから起こる状況を想像すると、子供たちへの詫びで目の前が真っ暗になる。長女に歩み寄ろうとすると、土足のまま階段を降りてくる数人の足音が威圧的に迫ってきた。「Hi」と先頭の男が姿を現すともう2人の男と一人の女性があとから続く。


 全員がリビングにそろうと、最初に入ってきたリーダーのような男が「子供たちも、全員そこに座って、動かないで」とソファーを指さした。子供たちはこわごわと男たちの顔を見ながら私たちの後ろに隠れるようにしてソファーに座った。


 この光景は今でもはっきり脳裏に描かれ、私の人生に起こった最悪の瞬間の絵であることは今も変わりない。左後ろに5歳の次男、右隣に9歳の長男、その向こうに夫、夫のわきには入学したてのジュニアハイスクールに胸をときめかせていた11歳の長女が静かにうつむく。リーダーの男が「なぜ今私たちがこのような形でここにいるか理解していますか?」とゆっくりした英語でたずねると夫がうなずきながら「yes」と言った。


 私ももちろん理解をしていたが、はい、と従順な態度を見せることになぜか抵抗を感じだまっていた。カナダに家族5人が合法で滞在するためには難民申請しか残される道がなくなった2年前。カナダの行政にも助けられながら、弁護士を雇い進めてきた難民申請だったが、3週間ほど前に正式に却下された。その時点で私たちはこの国を退去しなければならなかった。悩んだし、迷った。3人の子供を道ずれにこの外国で不法滞在になるには余りにリスクが高すぎる。


 申請者だった私は次の手段がないわけではなかったが、夫と子供たちは現時点ではこの国に滞在するすべはもう残されていなかった。夫と子供だけが帰国して、母と子がバラバラになるか。残った私の申請が通れば家族は呼び寄せられ、再びみんなで暮らせるようになる、という利点はあった。もうひとつは私も一緒に家族5人で日本に帰る、という選択。これはほぼ確実に成田空港で私は身柄を拘束され、そのまま刑務所に服役することになる、1年と10カ月。こちらも確実に母と子はバラバラになるだろう。母のいない慣れない日本での生活。夫がいるとは言っても母親の代わりになるわけもなく、そもそも母はどこへ行ったのか、どう説明するのだろう。


 4年前日本を出たのはこの子たちから母親を奪いたくなかった、こんな母でもこの子たちにはいた方がいいに決まっている、と信じていたからだった。だから、というわけではないが、今、この状況で母と子がバラバラになる選択をするのはやるせなかった。弁護士にも相談をした。このままイミグレーションに背いて退去しなかったら本当に見つけ出され、家族で強制送還になるのか?と。


 弁護士は言葉を選びながらも、そんなケースはあまりない、が、絶対にない、とは言い切れない、と今思えば当たり前の返答をしていたのだが、藁にも縋る思いだったあの時の私は、自分の都合のいいようにその言葉を解釈し、「やっぱり大丈夫だ、この国にはもっと悪質な不法滞在者が掃いて捨てるほどいる、私たちのような害のない家族を捕まえて国に送り返すなんてないに違いない」と。夫はもちろん反対をした。もう嫌だ、と言われたような気がする。日本を出たときから、家族の中心となって家計を支え、守り、日本とカナダ、時にはアメリカの国家に立ち向かい、彼は疲れ切っていただろう。


 それでも私は折れなかった、今、この状況で、どっちにしても母をなくす子供たちが、どんな思いでその日々を暮らすのか、自分に私の代わりができるのか、追い詰めるようにまくし立てたのかもしれない。いつものように最後には「わかった、のぶこに任せる」と彼は言った。


 いつも彼はそうだった、どれだけ反対しても、最終的には私に任せる、と言う。それは議論が面倒になったからとか、投げやりになったとかでなく、私と子供たちの絆を思うと、この人たちを離れ離れにすることは間違っている、と思ったのだと、ずいぶん後で話してくれた。


 そして私たちは、家族5人で不法滞在でこの国に残る、という危険な選択をしてしまった。一度は住所の割れてるその家を出ようとも考えた。しばらくは学校へイミグレーションが来るのではないか、とか、ポリスを見てはドキッとする場面もあった。用心深く家の出入りもしていた。しかし1週間も経つと「やっぱり弁護士の言った通りだ、イミグレーションが私たちを捕まえに来ることなんかないんだ」と、そんな気持ちの方にシフトしていった。まだこの国で普通に生活できるのだ、と安心していた、そんな時だった。


 リーダーの男は続けた。「あなたは今から拘束されます。異議申し立てをしてカナダに残るなら中で手続きをしてください。残りの4人は30分以内に荷物をもってこの家を出て入国管理局に収容されます。その後日本に送還されます」男が話し終わらないうちに私の後ろに隠れるように座っていた次男が声を出して泣き出した。隣を見ると長男は顔を真っ赤にして涙を流していた。長女の頬にも涙がつたう。悔しそうな横顔だった。


 この子たちは何も知らなかった、なぜ日本を突然出てきたのか、どうやってこの国に合法で滞在できてるのか、なぜ今、カナダのイミグレーションが土足で我が家に入り込み、30分以内に出ていかなければならないのか。何も知らなかった子供たちの涙。彼らは多分その時も詳細は理解していなかったけど、私とバラバラになり自分たちだけは日本に帰される、ということだけを理解したのだろう、と思った。


 何も知らないジャックラッセルの老犬が、イミグレーションのオフィサーの足元を、しっぽを振りながらぐるぐる回る。夫が「犬やほかにもペットがいるんだけど....」と言うと「すべて友達に任せてください、君たちは荷物しか持っていけません」と気の毒そうに犬を見た。ニューヨークから日本、日本からカナダに連れてきた13年一緒だったプーキーとこんな形で別れなければならないなら、あの時日本に置いてこればよかった、と無邪気にしっぽを振る犬を見ていた。


 目の前に何の希望もない状態とはああいうことを言うのだろう。呆然としていると女性のオフィサーが子供たちを促した。「早く荷物を作って、あなたは弟のものもできるでしょ?」と長女を連れて奥の子供部屋に入っていった。私はまた戻ってくるだろうから荷物は作らなくていい、どっちにしても留置所には荷物は持って入れない、ようなことを言われ、とっさに選ぶには大事なものが多すぎたものにも、特に目をくれることもなく夫たちの荷造りを待っていたのか。子供たちのこれからをただただ危惧するだけであった。


 荷物をもって子供部屋から出てきた長女が「ママ」と私にハグしてきた。「大丈夫、パパがいるから、ママにもきっとすぐ会える、大丈夫だよ」そんななんのなぐさめにもならないような言葉をやっと言うと、小さなメモ用紙を手渡された。


 驚きと恐怖、不安に襲われているだろう11歳の女の子は、荷物を作れと言われながら私に手紙を書いてくれていた。「ママ、いつまでも〇〇のそばにいてね。みんなママの事ぜったいわすれないからね。大大大大大好きだよ。すぐにあいにきてね。スケートがんばるよ。」と苦手な日本語で書かれていた。大声で泣きたかった。ごめんね、ママのせいでこんなに大変な思いをさせて、と。


 もう時間だ、と、荷物をもって外にでるように促される。エレベーターの前には他の住人が物々しいその状況を不思議そうに傍観していた。地下につくと2台の車があり、女性のオフィサーと長女と私、残りのは男性のオフィサーが連行し2台に分かれることを告げられると、2人の男の子たちは「ママー」と再び泣き顔になったが、入国管理局の前でまた会えるから、と言われると少し安心した顔をして夫とともに乗車していった。


 空港近くの入国管理局まで、30分から一時間だろう。3人の子供の送り迎えで常に駆け足で生活をしていた毎日。渋滞何てもってのほかだった日々のなか、その時だけはどうか渋滞しているように、一分でも一秒でもこの子と一緒にいられるようにと、彼女をぎゅっと抱きしめていた。しっかりものの長女、私を大好きな長女、まだまだ小さい、と肩を抱きながら思った。「大丈夫、パパがいるから」それしか言葉が見つからなかった。学校のこと、スケートの事、時には涙を見せながら、時には気丈にものを言いながら長女は話をしていた。


 あっという間に車は目的地についてしまった。私も車から降ろされ子供たちと別れを告げる。一人一人を抱きしめながら、やはり「パパがいるから大丈夫だよ」と言うのが精一ぱいだった。最後に夫に別れを告げる。よろしく、子供たちの事。わかってるよ、心配しないで。二人が体を離すと長女が「写真撮ろうよ」と言う。すかさずオフィサーが長女のアイポットタッチをもって家族写真を撮ってくれた。私にはこんな場面で記念写真を撮るなんてアイディアは全くなかったから、少し驚いたもののその写真は今でも私の心を強靭にする支えるお守りとなっている。


 人生で様々な別れを経験してきた。どんな時も別れは悲しい、切ない。でもあれほど身を切られるような別れはそう経験しないだろう。愛する子供たち、ある日突然平和な生活を打ち切られ、未知の生活を迎える小さな人たち。本当にごめんなさい。我慢していた涙がこぼれる。女性のオフィサーが「ママが頑張らなきゃ、子供たちの方が辛いんだから」と私の背をたたく。そして本当に最後の時が来た。みんな頑張って車に乗り込む私に手を振ってくれた。どうかこの先、この子たちが涙を流すことより、笑うことが多い日々になりますように。


 そして私を乗せた車は、さっきまで収容されていた空港近くの女性留置所に到着したのだった。


 そんなことに思いをはせている私のとなりには、中年の御夫婦が、カナダ旅行を終えたにぎやかな日本人ツアーの御一行様方が登場してきた。となりに座った御夫婦はカナダ旅行を振り返っては終始楽しそうに語らっている。まさか隣に座るこの私が、2週間前にイミグレーションに踏み込まれ、子供たちと引き離されて留置所に収容され、強制送還で日本に送られ、成田からそのまま刑務所に連行され、窃盗の罪で1年と10カ月を暗い塀の中で過ごすことになる人、だなんて夢にも思わないだろう、などと、向こう岸にいる楽しそうな横顔を羨んだ。


 眠ってしまう方が楽だろう、そう思いながらもきっと私はこの最後の13時間を一睡もすることなく、苛酷にも無意味な有意義な時間を過ごすのだろう、と感心とも哀れみとも言えない思いがよぎる。そして、忘れていたわけではないが、今この世で一番私を心配しているであろう母の事を考える。留置所にいるときに、母が、友人伝いで私たちの身に起こったことを聞かされたことは知っていた。


 きっと私が子供たちを思う以上に、彼女は心を痛めているだろう。日本を出るとき、もちろん最初は反対もしたけれど、苦渋の思いで私と孫を見送ってくれた母。想像しているような悪い結果にはしないから。必ず子供たちと笑って再会できるから、と大げさに明るく振舞ったのはもう4年前。一日一日が針の筵だったに違いない。年老いた母に、親孝行の代わりに私が与えたものはあまりにも苛酷な仕打ちだった。


 こんな結果になって、向ける顔など、話す言葉などあるわけがなかったが、離陸する前に声を聞かなければ、収容されたら面会など来るわけもない母に、せめて元気な声を聞かせよう、そう思うと買ったばかりのiphone5の呼び出し音に耳を傾けた。「もしもし.....」力ない老婆の声が一層私の胸をえぐる。私の声を聞くと母は、叫ぶとも泣きわめくともいわんばかりの、でも低い声で私の名前を呼んだ。


つづく