Toronto → 小菅 and Now

Toronto → 小菅 → and Now (4) 「...and now 今現在の私」

さとうのぶこ




このタイトル、.....and now、の部分に中々たどり着けないので、今日は今現在のことあれこれ、書いてみます。



仮釈放で出所してから早2年半、カナダへ逃亡した時は幼かった3人の子供達も、上から中三、中一、小三となり、とにかく忙しい、やってもやっても何かに追われる生活を送る日々。



話が前後するが、受刑中に出会った人々、見かけた拘留者、その人達の背景や環境、その以前からクリニックで耳にして来た仲間達の話、そこから、人間が健全でいられなくなるのはやはり幼少期の親、もしくは親同等に関わった大人の影響が大きいと再認識した私は、どこから湧き出た正義感に賛同したのか「子供は私が守る!病んだ大人になる前に、刑務所なんかに入る前に、私にだって何かができる!」とばかりに、半世紀もクリエイティブなことしかやってなかったくせに、出所後いきなり放送大学、なんてところに在籍し「心理と教育」なんぞを専攻する大学生となってしまった。

当初のきっかけとなった思いはともかく、それなりに勉強もし、半年に一度の試験を受けあと半年で卒業できるところまでやってきたことは、3人の子育てをしながらよく頑張ったと、自分自身のことながら感心してみたりもする。



受刑中の「出所後の教育」的な刑務官の話では「お前達は前科者だから、世の中に受け入れてもらえないぞ」と言われ続けたが、実際は自分が言わなければ前科者だとわかるわけもなく、この2年半、世の中に受け入れてもらえないと実感したことはなかった。



そう感じられているのは、私が逃亡したことも、受刑したこともさらけ出して語れている場所「さいとうクリニック」があるからなのだろう。



今だから言える話だけど、8年前実刑判決が確定した時、最高裁のために分厚い意見書を書いてくださった斎藤医師は、私が出頭せず海外に高飛びすることを知っていた。彼は行けとも行くなとも口にはしなかったが、逃亡前日に診察日を取ってくれ、最後の言葉は「5年後にまた会いましょう」だった。5年というのは、当時の私の計画で、判決が確定してから5年経っても拘留されない場合は時効が成立する、という法の網をくぐっての考えだった。



今でこそそんな私を「高飛びさん」などと呼んで笑いのネタにしている彼だが、私が刑務所には行かない、カナダへ行く、と話した時は驚きも戸惑いも見せないポーカーフェイスで「カナダのどこ?」と聞いてきた。「ニューヨークに一番近いからトロントにしようと思ってます」「変な街だよ、私の知り合いが住んでてね、行ったことあるけど好きじゃない」などとたわいもない話をしながら内心は、逃亡なんてバカなことを考えないで受刑してきなさい、と思ってたに違いないのだけれど、私は本当に逃亡してしまった。



出頭するべき人間が出頭してこなかった時の国家権力は想像以上のもので、忘れもしない2009年2月8日、私はすでにトロントの地を踏んでいたその日に、検察庁は私の実家、夫の実家、夫の勤め先、子供の通っていた小学校、幼稚園、かかりつけの医者、親戚、そして私の主治医である斎藤医師のところまで検察官を張り巡らせた。



その後も斎藤医師が当時行っていたインターネットカウンセリングなどでつながりながら、難民申請の手続きなどでも一筆書いて欲しいなどと、海を越えても迷惑はかけ続けながら3年半、その後拘束されてからはそのことを伝える手紙を書くことも許されなかった。刑務所というところは当たり前だか、なにをするにも規制があって、手紙でさえ自由に誰にでも出せるわけではない。身内、または許可された者のみが許される。



だから私はいつも心の奥にあった「5年後にまたあいましょう」とおっしゃった先生の顔をささえに、「先生、逃亡しきれませんでした、3年半で捕まりました。でも1年半ぐらいで出所できると思うから、結果あれから5年後に会えることになります!」と届かない言葉を届けたい思いでいっぱいになっていた。



夫に頼みその後の様子を伝えてもらうための手紙を出してもらい、だから私がそろそろクリニックに現れることも先生はご存知だったのだが、診察室のドアを開けた私を見て、ふふっと笑い「よく帰ってきたね」とおっしゃった。そこからはもう、いかにあなたは無謀か、普通の人は逃亡はしない、という話で盛り上がり、さいとうミーティングでは「高飛びさん」なんてネーミングも頂戴し、前科者の居場所を作ってくださった。



そんなクリニックで素敵な人たちにもたくさん出会った。逃亡前のクリニックは裁判中の状況が状況だったために決して居心地のいい場所ではなかったが、あの麻布の一角は妙に癒される場所になっている。




3人の子供達は、私が家を留守をするのは麻布のクリニックに行く時か、宝塚のご贔屓の出待ちだと思っているから、朝私がバタバタと化粧をしていると「今日は麻布?日比谷?」などと聞いてくる。

麻布(クリニック)は母にとって、宝塚と同じような場所だと思っている。そしてある意味それは否定できない、斎藤医師が大きな羽をつけて大階段を降りてくるのも悪くない、などと一人笑ってしまう54歳、母。



やりたいことが山ほどある、やらなければならないことも山ほどある。子供達の世話もまだまだ続く。昔から走り続ける人、それは変わってないけれど、一つ変わったのは、まあいいや、と、どんなことも適当にできるようになったこと。だから毎日が笑ってしまうほど楽しい。子供を怒っていても何か楽しい。それは多分、さいとうクリニックで身につけたいいかげんな生き方の処方のおかげだと思う今日この頃。



これが出所後2年半の今の私です。