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11月27日(日)赤ちゃんの舟に参加して(1)
A.T.
JUST日曜講座「赤ちゃんの舟」は、基本的に月1回の開催です。今月は先週の講座に続き、2度目の開催でした。先週は斉藤先生のレクチャーと質疑応答でしたが、今週は講師、北直子先生(武蔵野赤十字病院産婦人科ご勤務)をお招きして、産婦人科医療に関するレクチャーをいただきました。
斉藤先生は先週と今週を勘違いされ、先週はご自分の出番ではないと、ご自宅でおくつろぎのところを、事務局長の岩本さんから呼び出され、まだか、まだかとご登場を待ち構える私たちの前に息も絶え絶えに現れたのは開始から30分ほどたった頃でした。なんて大変なお仕事なのだろう、と私は顔を伏せたかったです。
北先生は産婦人科の先生をされていますが、小柄できゃしゃな方でした。私から見れば、産婦人科に勤めるドクター、ナースやスタッフの方々は気力、体力が相当なければ務まらないと思っています。だから、私が息子のすばるを台東区の病院で生んだとき、病棟勤務の看護師さん、ほかが横綱級の体力を持っていると感じ、たのもしいと思いました。
すばるは体重が1000グラムになった頃、せっかちに生まれてこようとしたため、「切迫早産」の診断で入院しました。それ以後、妊娠5か月あたりの時期から出産まで私たち母子は入院病棟で過ごすことになります。当時、夫は太平洋中央に埋まる海洋鉱物を探す調査船に乗り、長い不在が多かったため、入院してベッドに横になった私は「これで大丈夫」と深く眠ったのを覚えています。病室は4人の相部屋でしたが、様々な事情で入退院するルームメイトを数か月の間、出迎えたり、見送ったりしました。
懐かしい入院生活は今でもときどき思い出します。病院近辺は下町だったので、自営業の奥さんが入院してくることが多かったです。午前の回診で、お互いの事情や症状は筒抜けだったため、自己紹介は必要なく、プライバシー尊重などと言って頑張っていると、入院ライフがつらくなると判断した私は早い段階から「ひきこもり患者」をやめるよう心掛けました。
ウテメリン点滴スタンドに24時間つながれた私たちは、診察以外はほぼ終日一緒でした。中にはスタンドごと自宅に無許可で帰ってしまった患者もいたそうでしたが、私はスタンドを引きずりながら、病院中を歩き回りました。うるさい主任看護師さんが私の回遊を許さず、じっとしていないさい、と何度も注意して下さいました。
この看護師さんとの数多くの「いがみ合い」はとりわけ懐かしく、昼夜を問わず、どれほど対決したことか。責任がある、と言って、歩き回る私について回るので、看護助手さんたちに必要なことを頼んだり、めくらましに業務用エレベーターを使って脱走したりしました。産婦人科病棟には、妊産婦向けの退屈な雑誌ばかり置いてあり、他は聖書とか純文学系のハードカバーなど胎教に悪そうなものばかりでした。
あるとき、外科病棟の雑誌コーナーを目にして、そちらには柄の悪い雑誌が各種そろっていることがわかり、私は定期的に外科病棟に出かけていました。
入院が長くなると、終日着ていた病院から配布される死に装束に似た寝間着がいやになり、ルームメイトから聞いた通販会社から次々と気に入ったデザインのパジャマを取り寄せ、看護師さんたちが病室に届けた段ボールが山積みになり、ベッド周りは手狭になりました。けれど、私は死に装束を脱ぎ、次々と着替えてはナースステーションや外来待合室まで見せにいき、遠くにいくとまた主任看護師さんが捕えに来ました。
定期的にある内診が重なると、内診台に横たわったままドクターとふつうにおしゃべりしました。亭主元気で留守がいい、と私が言うと、主治医のドクターは、それなら医者がいいぞ、いつもいない、と言っていました。次にそうしますね、と言いましたが、今のところ最初の夫と曲がりなりにも家族を続けています。ドクターの外来や手術の合間に私たちは並んで内診台に次々と上がり、また病棟に帰りました。24時間病棟のベッドにいると、診察室に出かけるだけでも遠出した気になりました。その行き来だけで、その後は誰もがくうくう眠るシンプルな暮らしが続きました。 (つづく)
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